No 1 2006年4月18 (火) 我が山登りの会の4月例会で・・・古都・奈良の談山神社、長谷寺、室生寺を歩いてきました。 今年の桜の開花は、所によって遅かったり早かったりしたので・・・ 奈良の桜も、もう散ってる頃かなと思っていましたが丁度見頃でラッキー! 桜井市の南方に広がる山麓一帯を多武峯(とうのみね)と呼び 談山神社は・・・多武峯寺とも呼ばれ、明治の廃仏毀釈までは寺院だったそうです。 しかし明治の神仏分離令で妙楽寺は廃絶となった。 この「談山神社」は藤原氏の始祖である藤原鎌足を奉る神社で・・・ 「大化の改心」の立役者である中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が 当時権勢を欲しいままにしていた蘇我蝦夷と入鹿親子を討伐すべく、 多武峯(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行なったことから、 後にこの山を「談(かたら)い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなったと伝えられます。 また縁結びの神様としても親しまれ、多くの若い人たちも参拝に訪れる。
拝殿は、亀甲の石畳を敷いた小さな中庭に相対し本殿となっている。 本殿への参拝は・・・拝殿の中央部から中庭を通して行うことになる。 ご夫婦お二人連れの方が・・・ひざまずいておもむろに拝んでおられました。
蹴鞠が行われる広場のすぐ後ろに十三重塔がある。 天武天皇7年(679)、唐から帰ってきた藤原鎌足の長男・定恵が 父の墓を摂津からこの地に移し、弟の不比等とともに十三重塔婆と講堂を建立して 妙楽寺と称したのがはじまりだそうです。 この搭は鎌足の死後、摂津阿威山に葬られていた亡骸をここ、 多武峰に移して建てられたお墓で、木造のものとしては現存唯一の十三重塔(重文)です。 しかし戦火に焼け落ち、写真の十三重塔は1532年の再建されたもの・・・
ここは、大化の改新でお馴染みの中大兄皇子と 中臣鎌足が日本の将来について語りあったといわれる「談い(かたらい)山」が、すぐ後ろにあり その頂上には、大化の改新の談合の碑が立っています。 中央下に十三重の搭・・・後ろが談山
十三重の搭の裏には、ヤマルリソウが沢山咲いていました。
長谷寺案内図 緑豊かな小初瀬山・・・その中腹に長谷寺はあります。 長谷寺は・・・真言宗豊山派の総本山として、また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ケ寺、檀信徒はおよそ三百万人といわれ、 四季を通じ「花の寺」として多くの人々の信仰を集めています。 春はしだれ桜・牡丹、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は寒牡丹・雪景色と見る人を魅了するそうです。 長谷寺は天武・持統天皇の病気平癒を祈って 僧道明が千仏多宝塔を置き、後に聖武天皇の勅により徳道上人が 一寺を建立したのが始まりといわれる。 本堂(重文)は舞台造り、南面入母屋造本瓦茸の大殿堂で・・・ 奈良東大寺大仏殿に次ぐ最大級の建造物で、 南に五間・三間の外舞台がある独特の建築様式となっている。 長谷寺の総門・・・額は後陽成天皇の筆で 楼上に十六羅漢、両側に仁王像が安置されています。 重厚かつ荘厳な門構えで、真言宗豊山派の総本山としての風格を備えている。
全国に「ぼたん寺」として知られる・・・長谷寺 この登廊の両側には、150種・約7000株もの牡丹が植えられています。 唐の后妃馬頭夫人が観音様の霊験を得たお礼にと 牡丹を献木したのが始まりと言われています。 牡丹の時期には、咲き競って楽しませてくれるそうですよ!
長谷寺・本堂 (写真は長谷寺パンフレットより) 奈良東大寺に次ぐという大きな本堂 本尊である10m近い十一面観世音菩薩が温かく迎えて下さった。 十一面観世音菩薩は、木造仏では我国最大の大きさで・・・黄金の光を放っていた。 本堂内部を抜けて正面に出ると、舞台造りになっていて 素晴らしい景観が待っていました!
松尾芭蕉をはじめ、古くから文人達の魂を揺さぶったと言う 長谷寺の桜・・・ 桜の花の中に、本堂・五重塔が浮かぶ姿は、さながら 桜の浄土とも言えるほどの素晴らしさです。
創建時には三重塔が建てられ、たびたびの焼失後も再建されてきましたが・・・ 明治9年の焼失後は、三重塔の礎石のみ残っているそうです。 その三重塔跡のすぐ脇に、昭和29年(1954年)五重塔が建てられた。
一幅の絵巻ですね!! 外舞台から眺める境内は・・・絶景で心が洗われるようでした No2・・・続き 室生寺を見る |