天応烏帽子岩山 (408m)


2005年12月11日 (日)  

山頂が烏帽子の形に見えるので・・・烏帽子岩


今回は、カラッチが所属している山登りの会「Y会」の12月の例会登山で
広島県呉市の天応烏帽子岩山に登山で〜す!
天応烏帽子岩山は、山と渓谷社の中国百名山にも選ばれていて、
岩場の少ない広島県では、この天応烏帽子岩山と三倉岳、鎌倉寺山が・・・
広島のロッククライミングの登攀技術を積む練習場とされてきました。
今日は、ロッククライミングの練習ではなく
前回ロッククライミングの練習の為、山頂まで登れなかったので
天応烏帽子岩山々頂からの展望がとても楽しみなので〜す!


広島・呉有料道路の側道に沿って呉方面に走ると、天応料金所があるので
天応料金所を右に見て約と200mくらいで、左手に「烏帽子岩山登山口」の小さな案内標識がある。
標識に従って細い道を山の方に登ると、墓所が見えてきます。
墓所の手前に数台(7、8台)おける駐車場があります。
東方向を見上げると、三角錐の形をした特徴ある烏帽子岩と・・・
その奥に烏帽子岩山が聳えています。





烏帽子岩の直下あたりから、岩登りが始まりま〜す。
ルートを外さないように、テープに従い足下を確保しながら登ります。
距離は短いのですが・・・なかなか侮れない急登です!
三点確保を基本に、手と足・・・総動員で岩登りの楽しさを存分に味わいながら登って行きます。
(^ ^;)ゞ イヤー  楽しい〜〜♪  あの槍ケ岳より面白いかも〜です。



烏帽子岩の突先




岩場の突端に立つカラッチ・・・右手はしっかり松を握ってます(笑)




先発隊が烏帽子岩まで登ってみたのですが、どうやら向こうに下りる道はなさそう〜
と言うことで・・・一旦登った道を引き返し、右にそれるルートを辿って
烏帽子岩の右手を回り込んで、岩が多い急な山道を登っていきました。
右手にクロナメラとよばれる岩場が広がっている。
このクロナメラとよばれる岩場が・・・ロッククライミングの練習場なのだそうだ!
残念ながら今日は、一人も登っていませんでした。



ドン亀岩にはこのロープが頼りです 手前がドン亀岩・・・右が烏帽子岩山(ドン亀岩から)


烏帽子岩の上に出ると、左手にドン亀岩が現れました。。
が、しかし・・・そのドン亀岩に登るには、ロープを頼りに登らなくてはなりません。
しかもその岩の高さは、人の2倍ほどもあり・・・
足をかけるのは、二つの岩場の間につめてある小さな岩がたよりです。
まず会長さんを含め男性が3人登りました。
次に「登りたい人〜」って聞かれて、カラッチが「ハーイ」って手を上げました。
女性は・・・4人登りました。
(〃▽〃)きゃ〜 右足しかかける所がなく、後はロープが頼りで〜す!
なんとか上から引っ張って貰ってやっと登ることが出来ました。
はぁ〜・・・( ´o` )
ドン亀岩からの展望は、それはそれは素晴らしいものでしたよ!!




ドン亀岩の上のカラッチ・・・証拠写真で〜す!
(左手・下にみえるのが、烏帽子岩山です)





ドン亀岩、烏帽子岩を見下ろす・・・このドン亀岩に登りました



ドン亀岩の一部(高い)と・・・呉ポートピア方面


ドン亀岩からは松の多い雑木林を登っていくと中国自然歩道に出て、烏帽子岩山の山頂に着きました。
天応烏帽子岩山の山頂(408m)は、平らな広場となっていたが・・・三角点らしきものは無かった。
天狗城山、天狗岩、江田島、古鷹山、広島市方面・・・そうして
灰ケ峰・休山、北に目を向けると熊野の山々が一望でき素晴らしい展望で〜す。
   ここで昼食後、上山(391.7m峰)を通って、通称「バカ尾根」いわれる尾根を下ります。
右手の木間から、烏帽子岩山の岩峰を望みながらグングン下っていく。


天応烏帽子岩山山頂




独特な山容の烏帽子岩


男たちの大和「大和ミュージアム」

登山口の駐車場に着いてから、呉市の「大和ミュージアム」を見学して帰ることになりました。
広島県の呉市は・・・明治22年に呉鎮守府、明治36年には呉海軍工廠(海軍直轄の工場)が設置され・・・
戦前には、戦艦「大和」を建造した東洋一の軍港として叉日本一の海軍工廠の町として栄えた。
また戦後は・・・戦前から培われてきたその技術を生かし、
世界最大のタンカーを数多く建造するなど日本の近代化に大きく貢献したのです。
戦艦「大和」は、昭和16年(1941)12月・呉海軍工廠で極秘裏に建造された世界最大の戦艦です。
(大和ミュージアム資料より抜粋)



戦艦「陸奥」の主砲身,スクリュー,主舵などの引揚品 実物の10分の1の・・・戦艦「大和」





戦艦「大和」の模型の前で・・・最後の様子を語られる・・・戦艦「大和」の生存者「八杉康夫さん」

戦艦大和は、アメリカ 軍艦載機延べ300機の激しい爆撃と魚雷攻撃を受け、3300余名の乗組員の内
生存者はわずか270余名・・・さらに戦後60年を経て、現在20数名の生存者がおられるそうです。

太平洋戦争開戦直後の昭和16年(1941)12月16日、世界最大級の戦艦が完成した。
その名は「大和」。
当時の造船技術の粋を注ぎ込み、4年余りの歳月をかけ、
広島県呉市の海軍工廠で極秘裏に建造が進められてきた“不沈艦”は世界最大級の46cm主砲9門を備え、
全長263m、満載重量72,800トンとほかに類を見ない巨艦だった。

しかし戦局は悪化の一途をたどり、昭和20年(1945)4月、稀代の激戦地区となった沖縄に最後の出撃命令が下される。
“一億総玉砕”の旗印の下、最初で最後の水上特攻になったこの大和の出撃には3300名あまりが乗り組んだ。
そしてその多くは召集間もない10代半ばから20代の若者たちだった。

そして運命の昭和20年4月7日を迎える・・・。

呉市「大和ミュージアム」


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